杉大門通りの歩み

戦時中昭和20年前後戦争でなにもなくなりこれから皆で助け合いながらやりましょうということで今の基盤となる杉大門人気会が昭和33年頃に出来る。最初は肉屋、八百屋等なんでも2軒ずつあるような商店街だった。

オリンピックの頃、六本木などのお店では11時までしか開いておらずそれ以降の時間に遊びたいというお客さんが杉大門に流れてきた。

昭和40年代頃、物品販売の商店街から大人の落ち着いた飲み屋街と変化していった。当時家主だった方は自分の土地にビルを建てオーナーとなりテナントに貸すことになってきた。今は周りに大きな繁華街 渋谷、新宿、池袋、赤坂などがあるが杉大門はその繁華街のちょうど真ん中に存在し、仕事終わりのサラリーマンなどが明るく、賑やかな所は苦手で落ち着いた雰囲気で飲みたい人達の隠れ家的な街としてある。芸能、著名人等も昔から隠れ家的存在として利用していた。近年は50周年を向かえた。

新宿・四谷の歴史

四谷の名前の由来

四谷はかつて四つ家があったから四谷といったり、四つの谷があった等々、諸説沢山ありどれも定かではなく、今も物議をかもしている。

四谷丸太の発祥地

杉大門のある舟町、江戸時代の初期、舟坂をつくる杉材を伐り出したので舟坂横町の町が起こり、それがもとで舟町という町名ができた。
全勝寺の山門には靖国通りに下る道がある。この辺りは杉林だったので杉材の産地だった。この杉の若木の皮を剥いで「四谷丸太」として出していた。建築の足場組み立てに使う物であるとして出して明治以降は生産地が高井戸等に移ったが「四谷丸太」の名は残っている。

全勝寺と杉大門通り

zensyou.jpg門前町として栄え、古くから杉大門通りとゆかりのある寺である。また名前からも「全てに勝つ」という縁起がいいして有名だ。杉大門を一直線で歩くと全勝寺があるので「合格祈願」に是非!

全勝寺の歴史

雄峰山全勝寺は、埼玉県岩槻の曹洞宗常泉寺の末寺。
天正六年(1578)、麹町貝塚に創立したときは竜源寺と称していた。
元和二年(1616)牛込藁店に転じ、同年五月四谷に移ってきた。開山は栄巌清繁和尚で、慶長十三年(1608)に亡くなっている。

寺号を全勝寺に改称したのは、次のような理由からである。
貝塚時代の檀家に朝倉某という武家があった。この家は不幸にも断絶して、その屋敷跡もわからなくなっていた。ところが、この寺が四谷に移ってからしばらくして、 境内にもと朝倉氏の居宅があったことが判明した。因縁浅からず、と感じた当時の住職が、朝倉氏供養のため、その法名、興隆院殿等全勝居士からと採ったのである。

書籍姫の墓

全勝寺には、大正末期まで「書籍姫の墓」というものがあった。
この墓は牧野備後守成貞(常陸笠間八万石)の娘常子のもので、当時、墓石に耳を当てると姫が本を読む声が聞こえるといわれていた。墓前に小さなお堂があって、中には仏書やお経が並べられていた。その本は貸してくれるが、返すと時は別の本を一冊添えて返すことになって いた。もし、借りた本を返さないときには、毎晩、姫が夢枕に立って催促するということである。
惜しいことにこの墓は、昭和始め、茨城の笠間に移されてしまった。

西念寺 半蔵の槍

hanzo_yari.jpg四谷にはあの服部半蔵の槍が今でも置いてある西念寺がある。本堂に飾られているその槍は安政の地震で先端が30cm、昭和20年の戦災で150cm損壊したがそれでも全長258cm、重量約7.5kgの堂々たる存在感を漂わせている。

服部半蔵をいう将軍

江戸城完成後半蔵は幕府の軍隊である与力30騎、伊賀同心200人の頭目をして、半蔵門内に屋敷を構えた。半蔵門はそれにちなんで名付けられたと言われる。また半蔵は後期法名を西念といい、徳川家康の長男信康の冥福を祈るため、家康の命により、この西念寺を開山した。
世間では忍者の半蔵で有名だが実は秘密捜査官を指揮するCIAのトップのような人だったらしい。

戦時中の話

戦時中四谷は空襲にあい周りは全て焼け、今の三菱のビルしか残っていなかったという。当時家で座って富士山が見えたほど何もなかったらしい。